阪神タイガース

okada

オープン戦ではあまり良いところが出ていない阪神。岡田監督はどのように修正していくのか(C)KentaHARADA/CoCoKARAnext

 今月23日からスタートしたプロ野球オープン戦で、昨年のセ・リーグ覇者であり日本一の座にも輝いた阪神がここまで3連敗と、予想外の結果となっている。

 23日には、巨人との「伝統の一戦」で華々しくオープン戦初日を迎えたものの、4-9で黒星発進。翌日はヤクルトに0-1で完封負けを喫し、その次の日の中日戦でも1-4で敗れている。

【動画】「勝てない王者」2024年2月25日【 阪神 vs 中日 】 佐藤義則の眼


 もちろん開幕前ということもあり、結果を重視する必要は無いものの、それぞれの内容を振り返っても昨年の王者の面影が見えづらい負け方にも映る。特に、打撃陣に至ってはヤクルト戦ではわずか1安打で敗れるなど、ファンにとってはやや不安を残すゲームが展開されている。

 また、3試合での打撃陣のパフォーマンスには、バッターそれぞれの打席における意識を問う声が、球界OBからも上がっている。

 現役時は阪急やオリックスで活躍し、指導者として阪神のコーチも務めた佐藤義則氏が、自身のYouTubeチャンネル『佐藤義則チャンネル』を2月25日に更新。オープン戦3連敗の阪神について、自身の見解を語っている。

オープン戦と言っても、連敗となれば監督もあまりいい気分はしないと思う」

 3連敗についてそう語る佐藤氏は、ここまでの阪神の試合内容において、先発、救援陣のピッチングを振り返るとともに、打者については見逃し三振があることに対して苦言を呈している。3試合でいずれも見逃しでの三振が記録(計8個)されており、相手にリードを許し、ランナーを置いた場面でもスイングせずにアウトとなるシーンが目立った。


 佐藤氏は「バッティングコーチは絶対に『積極的に振っていけ。甘いボールは見逃すな』と言っているはず」と述べている。また、昨年は四球を選ぶ姿勢が攻撃陣の大きな特徴となったことにも触れながら、「今はそういう時期ではないので。やっぱりバットを振るということを優先させないと」と主張。

 さらに、「バッティングコーチにしてみれば、振らないで帰って来るのが一番ショックなこと。何のために使ってもらっているのかという感じになっちゃう」と論じており、状況に応じたバッティングが重要であるとして「ファウルで逃げるとか、自分で考えて、追い込まれたら右打ちを狙うとか、そういうことをしていかないと何も起きない」と言葉を続けた。

「『今年の阪神は強いな』と相手に思わせないといけない。やっぱり点数が取れないと勝てないので。いくらピッチャーが抑えても」

 現在までの内容を踏まえ、佐藤氏はチームに対し、もどかしそうな表情でそう語っている。阪神の次戦は来月2日、沖縄から北海道へと移り、札幌ドーム日本ハムと2連戦を戦う。仕切り直しとなる試合で、阪神打線の奮起に期待したい。


[文/構成:ココカラネクスト編集部]


オープン戦3連敗で浮かんだ懸念材料 見逃し三振が目立つ阪神打線に球界OBが苦言「何のために使ってもらっているのか」


(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

【オープン戦3連敗で浮かんだ岡田阪神の懸念材料 】の続きを読む

rohasu

KTウィズでの再起を誓っているロハスJr.。この元二冠王が不遇をかこった阪神での経験を振り返っている。(C)Getty Images

 かつて日本でプレーした助っ人スラッガーの赤裸々な告白だ。2021年から2年間、阪神に在籍し、今季からKBO韓国プロ野球リーグのKTウィズに在籍しているメル・ロハスJr.が日韓プロ野球の違いを明かした。

【動画】打った瞬間の圧巻弾! 元阪神ロハスJr.の今の打撃を見る


 日本では苦しい時期を過ごした。20年にKBOリーグで、打率.349、47本塁打135打点、OPS1.097というハイアベレージを残してMVPに二冠王とMVPに輝いたロハスJr.。同年オフにNPB複数球団による争奪戦の末に阪神と契約。いわば「救世主」として大きな期待を背負っての鳴り物入りでの入団だった。

 しかし、コロナ禍による合流の遅れなどもあり、結果は鳴かず飛ばず……。在籍2年間で通算成績は、打率.220、17本塁打、48打点、OPS.697と低迷。韓国球界二冠王の実力を発揮できずに、契約満了による退団を余儀なくされた。

 今季から古巣KTウィズに4年ぶりに復帰したロハスJr.は、開幕に向け調整を続けるなかで、日韓両球界の違いを率直に語っている。韓国メディア『OSEN』の取材に応じた33歳は、「日本と韓国は異なるスタイルの野球をしている。だから簡単に良い悪いを言うことはできない」と前置きしたうえで、こう続けた。


「打者として何かを話さなければならないとすれば、日本は韓国より球速が速い投手が多いんだ。制球力の良い投手ももっと多かったね。韓国の投手たちは、真っ向勝負が必要になるシチュエーションで、自信を持って勝負に臨む。だけど、日本の投手たちは、国際的にも有名で、どんなに優れた投手であっても、こっちがその前の打席でヒットを打っていたら、絶対にストライクは投げない。ボールゾーンに球を散らして真っ向勝負をしないんだ」

 以前に日刊紙『朝鮮日報』の取材で「2020年以降で僕は本当に色々な経験をした。それが成長するための礎になると思う」と自信を漲らせていたロハスJr.。日本で「ダメ助っ人」のレッテルを貼られてしまった感のある33歳は、愛着のある韓国で再起を遂げられるだろうか。


[文/構成:ココカラネクスト編集部]


「日本は真っ向勝負をしない」元阪神助っ人ロハスJr.が告白した日韓球界の違い「どんなに優れた投手でも」


(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

【元阪神助っ人ロハスJr.が告白した日韓球界の違い】の続きを読む

andou

「安藤は自分から辞めたからいうて、何もくれんかった。クビになればよかったよ…」

 こう言ってボヤいてみせたのは、元阪神監督の安藤統男氏である。1982年から3年間、指揮を執ったのだが、実は5年契約。なぜ3年でユニフォームを脱ぐことになったのか。

 野球解説者高橋慶彦氏のYouTubeチャンネルよしひこチャンネル〉で、その顛末を明かしたのだが、

「5年契約で、3年間でチーム作れと。あとの2年間で勝負しろと。そこで勝てたら、また次のチームのことを考えてくれ…」

 3年間の成績は3位、4位、4位。これで球団は「勝てない」と判断したのだという。安藤氏が憤る。

「3年終わったらね、勝てねえもクソもないだろうと。3年でチーム作れっていうから、その通りやってきたやないかと。池田(親興)とかね、左のマイク仲田幸司)とか、中西球道中西清起)とか、あれらも大事にしながら、これは先にいって使うピッチャーだから…」

 最終的には球団が西本幸雄総監督、安藤監督の体制を敷こうとしたことから、

「選手は、総監督と監督の話が離れとったら、どっちの話を聞くんやと。そんなややこしいこと、選手にやらせたらいかん。それで辞めたもんね」(安藤氏)

 退任後の1985年、阪神は吉田義男監督により、球団史上初の日本一に輝いた。掛布雅之岡田彰布ランディ・バースら重量打線は爆発し、前年1勝6敗の中西は、11勝3敗19セーブの活躍で最優秀救援投手に輝いた。これも安藤政権時の3年間におよぶチーム作りの成果だった。なんとも損な役回りを担ったというか…。

(所ひで/ユーチューブライター

アサ芸プラス


(出典 news.nicovideo.jp)

安藤 統男(あんどう もとお、本名・安藤 夫※読み同じ、1939年4月8日 - )は、茨城県土浦市出身(兵庫県西宮市生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 兵庫県西宮市で出生後に、実父の転勤で土浦市内に転居。土浦一高進学後は、2年次の1956年まで木内幸男監督の指導を受…
37キロバイト (5,040 語) - 2024年2月4日 (日) 22:38



<このニュースへのネットの反応>

【阪神・安藤統男元監督がブチまけた総監督制の舞台裏】の続きを読む

hirodo

 プロ野球春季キャンプも中盤戦に突入。著名人が続々と現地入りする中で、ひと際目立つのは「報道ステーション」(テレビ朝日系)でスポーツキャスターを務めるヒロド歩美(32)だ。

 取材初日の2月1日は、昨年日本一の阪神・沖縄宜野座キャンプを訪問。前職のABCテレビ局アナ時代に築いた人脈を駆使し、選手からフロントにまで笑顔を振りまき挨拶していた。

「局アナ時代からヒロドは選手との距離が近すぎることで有名。勝負どころでは露出度が高い服装で現場にやってきて、ノースリーブトレードマーク。二の腕を見せつけて来るものだから、免疫のない若い選手はメロメロです(笑)」(球団関係者)

ジャケットの中にノースリーブ、上着を脱ぐ場面も

 2016年から「熱闘甲子園」キャスターを務め、高校時代から取材を続けてきた若手選手を食事に誘うなど“肉食系”のヒロドアナ。16年10月には、先日メッツと契約合意した藤浪晋太郎(29=当時阪神)との熱愛報道まで飛び出した。

 そんなヒロドアナのキャンプ襲来を受けて、阪神球団内では選手に対し「ノースリーブ注意報」が発令されたという。

「球団側は事前に、系列局の関係者に非公式に『いつからヒロド来るんや?』と情報収集していました。案の定、ヒロドはキャンプ初日はジャケットこそ羽織っていたものの、インナーにはノースリーブを着用し、たまに上着を脱ぐ場面もありました」(同前)

自主トレにも潜入し、セ・リーグMVPに急接近

 ナインの間では当初「佐藤輝明(24)がロックオンされている」ともっぱらの噂だった。

「ところが佐藤はOBから『ヒロドだけは気をつけろ!』と釘を刺され、距離感には注意を払っているようです」(球団ОB)

 そんな中、特に球団がガードを強化しているのは、昨季新人王とセ・リーグMVPをW受賞した村上頌樹(25)だという。

「昨年末、ヒロドはスポーツ系ニュースサイトの取材で、村上について『高校時代から見ていた選手なので思い入れがある』『過去を振り返ると感慨深い。キラキラとした日々』などと述懐していました。今年1月には静岡県沼津市での自主トレに番組取材で潜入し、距離を縮めている。しかし、球団からすれば若手有望株の村上が“骨抜き”にされるのは避けたいのです」(前出・球団関係者)

 ただ、ヒロドアナには大きな後ろ盾が。

「ヒロドは岡田彰布監督(66)とも親交を深めているのです。そのため選手たちは無下にもできず、難しい立ち回りを迫られています」(前出・OB)

 ヒロドの“強肩”に翻弄される日々は続きそうだ。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年2月22日号)

ヒロド歩美アナ


(出典 news.nicovideo.jp)

ヒロド 歩美(ひろど あゆみ、1991年10月25日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元朝日放送テレビ(ABCテレビ)アナウンサー。 兵庫県宝塚市の出身で、日系オーストラリア人3世の父と日本人の母との間に出生。小学2年時に、オーストラリアで9ヶ月間生活した。…
28キロバイト (3,724 語) - 2024年1月18日 (木) 13:44



<このニュースへのネットの反応>

【“肉食”女子アナから選手を守れ! 阪神が報ステキャスターに出した「ノースリーブ注意報」】の続きを読む

bass

右打者が有利といわれる甲子園球場で、ランディ・バースはクレバーにもハートフルにも戦った左打者です。優勝のカギを握った1人、ランディ・バースとはどのような人物だったのでしょうか。掛布雅之氏の著書『常勝タイガースへの道 阪神の伝統と未来』(PHP研究所)より、阪神が優勝を成し遂げた要因をみていきましょう。

阪神甲子園球場でホームランが出にくいワケ

阪神甲子園球場2022年シーズン終了時点で、日本プロ野球の本拠地としては現存する最古の球場である。球場の設計に当たっては、MLBの当時のニューヨークジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地であった「ポロ・グラウンズ」をモデルに設計されたといわれている。その後、「ポロ・グラウンズ」はニューヨーク・ヤンキースメッツホームタウンとしても使用された。

甲子園球場の名前の由来は、完成予定の大正13年(1924年)が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年であったからとのことである。1924年8月1日に竣工式が行われた。

甲子園球場の両翼は95メートルセンターからホームベースまでは118メートルセンターからホームベースまでを見れば、122メートル東京ドームより4メートル短い。しかし、左中間、右中間はホームベースから118メートルあり、東京ドーム110メートルよりかなり広い球場である。

今の甲子園球場ではピッチャーを中心とした守る野球に徹して戦うしかない。広いから、阪神以外の球団でも甲子園ではホームランが出づらい。事実、甲子園ホームラン数は他球場に比べて少ない(図表)。投手を含めた守る力で勝っていく野球を岡田監督は考えていると思う。

パークファクター(PF)とは?

球場は形状や大きさ、立地条件がそれぞれ異なることから、本塁打など各成績に偏りが出ることがある。平均的な球場に対して、球場ごとの成績の偏りを表す数値指標がパークファクターである。本拠地としている球団の成績には左右されない指標となっており、純粋に「平均的な球場(6球場の平均)に対して当該球場では本塁打を何倍打ちやすいか」を示している。

また、甲子園球場の代名詞ともいえるのが浜風である。

浜風とは、晴天時には陸上の気温が海上の気温よりいち早く高くなって、空気が上昇したスペースに、1キロほど先の瀬戸内海から吹きこんでくる海風のことだ。甲子園球場にはこの浜風がよく吹きこんでくる。

特に日中は浜風の影響を受けやすいといわれている。事実、高校野球甲子園球場での歴代ホームラン通算記録は下記のようになっている。

高校野球甲子園通算本塁打記録】

1位:清原和博PL学園)/13本

2位:桑田真澄PL学園)/6本、元木大介(上宮)/6本、中村奨成(広陵)/6本

いずれも右打者である。少なからず右打者のほうがホームランを打ちやすい球場なのであろう。

前置きが長くなってしまったが、私が共にプレーさせてもらった前提で、左の強打者の筆頭として挙げるとすればバースだろう。

ランディ・バースが日本で成功できた理由

バースMLBミネソタ・ツインズカンザスシティ・ロイヤルズモントリオール・エクスポズサンディエゴ・パドレステキサス・レンジャーズなどのチームを渡り歩いていた。長打力は評価されている一方で「ウォーニングトラックフライボールヒッター」ともいわれていた。フェンス際まで打球を飛ばせる力はあるものの、オーバーフェンスには少し足りないバッターを揶揄する表現だ。

また、MLBの速球派投手に弱いという弱点もあった。NPB日本野球機構)では、阪神以外にはヤクルト、阪急が獲得調査をしていたが、結果的に阪神が獲得することとなった。当時阪神ではレギュラーの左打者が私1人であり、左打者がもう1人いれば……ということだったのだろう。

阪急はそのときに右打者のブーマー・ウェルズを獲得したと当時の安藤統男監督(阪神)から聞いた。また、バースブーマー共にポジション一塁手であり、守備位置が被っていた。どちらかが外野を守れていたなら、両方の選手を獲得したかったとも聞いた。また、バース獲得の大きな要因として、当時の編成担当から聞いたところによると、彼はマイナーリーグの2Aや3Aで4球を年間80前後選んでいて、打席で我慢できる選手という評価だった。そして、速球を打つのは苦手だが、変化球打ちが上手いという評価だった。

バース1983年から88年まで在籍し、2度の3冠王を獲得、NPBシーズン最高打率の3割8分9厘(86年)を記録した。

バースに関して特筆すべきことは、日本文化に溶け込もうという強い意思を感じたことである。

阪神は83年、84年とハワイのマウイ島でキャンプを行っていた。そのキャンプの休日にゴルフをラウンドしたり、川藤幸三さんに将棋を教わって覚えるなどしてチームになじんでいった。チェスと同じだと思っていたが、全然違うので面食らったらしい。来日した際には、オクラホマの小さな町から来たバースは慌ただしく動く日本人に驚いたという。来日1年目は、電車で甲子園球場まで通い、球場のおばちゃんがつくってくれるラーメンを愛した。屋台のラーメンにもチャレンジしていた。また、いたずら好きで茶目っ気があった。

野球に関しては、甲子園球場の内野に芝生がないことに驚いたという。MLBのグラウンドは天然芝であることが多い。

そしてよくいわれることであるが、フルカウントで、ストレートではなく変化球を投げ込んでくる攻めに躊躇したという。また、明らかに外角に外れたボールなのに、外国人という理由でストライクゾーンが広くなり、審判にストライクコールされたことがあったという。そのため、1軍打撃コーチの並木輝男さんに相談し、並木さんの提案でセンターからレフトに打つ練習を徹底的に行った。

2023年1月、日本の野球殿堂に選ばれたバースが来日した際に、日本で成功できた理由を「1番大きかったのは並木打撃コーチの存在」と語っている。「コースに逆らわずセンターからレフトへ打つことを辛抱強く教えてくださいました。今の自分があるのは並木コーチのおかげ。レフトから左中間にホームランが出るようになり、タイトルを獲れるほどの打者に成長できた」と明らかにしている。

ランディ・バースのバットの秘密

彼のバットは、先が太くて、グリップが細い。バットの総重量は1キロ近くあった。グリップが細くて、バットヘッドが太いということは、グリップを握ったときにはすごく重さを感じるはずだ。

ただ、彼は2ストライクを取られると、バットを少し短く持って確実にミートしてくる。また、夏場に疲れが溜たまってくると、33インチ半という短いバットを1本バットケースに入れて、自分が疲れていると感じると、短いバットを使っていた。

相手のバッテリーは、バットが変わったことには気づかない。そういうクレバーさに秀でた打者だった。過去の外国人選手の中には素晴らしい打者もいたが、バースほど日本の野球を分析し、対応して、打席に立ち続けた外国人選手を私は知らない。

また、相手投手が厳しい内角攻めをしてきても怒ることはなかった。相手投手に対して常に紳士的な対応をしていたのが印象的だ。

私も内角攻めをされても、怒りの感情を表すことはなかった。なぜなら、相手投手に怒りの感情をぶつけると、次の打席で投手はむきになって内角攻めを執拗にしてくるからだ。怒らなければ、投手も申し訳ないという気持ちになり、内角攻めをしてこなくなるものなのだ。バースが私の対応を見てそのような態度をとっていたかはわからないが……。

そして、試合中に相手投手からデッドボールをもらったとしても感情を露わにすることはなかった。助っ人外国人選手は、投手にぶつけられると激高するシーンも多く見られた時代である。

バースは静かな闘志を持った男だった。数多くの外国人選手と共にプレーをしてきたが、バースは助っ人というより仲間であり友人だった。

バースは人間的にも、周りに対する気配りというものが素晴らしい外国人選手だった。シーズンが終わると、必ず私のところに来て「ありがとう」といって帰っていく。

「あなたが4番にいてくれたから、俺は3冠王を獲れた。あなたが3番を打っていたら、全部タイトルを獲っていたかもしれない」ともいっていた。そういう、人に対する気配りもあったのだ。当時の安藤統男監督にも「来年も掛布の前を打たせてくれ」といって帰国していた。

バースに対して同じ左打者としてアドバイスをしたことはない。私のバッティングを見て「ああいうふうな左方向への打ち方をしなければ駄目だ」と思っていたようだ。「掛布のような打球方向を多く打っていかないと、ホームラン数は増えない」と浜風から感じたのではないだろうか。

MLBと比較して狭い日本の球場で、左方向に強い風が吹いているときには、軽く流しただけでレフトスタンドへの本塁打なるほどだった。

前述したように、バースインコースの速いボールに対して比較的弱いと言われていたようだが、変化球を打つのがとても上手かった。85年の日本シリーズでも、第1戦の松沼博久投手、工藤公康投手から執拗にインハイを攻められるが、工藤投手のアウトコースカーブレフトスタンドに運ぶ値千金の本塁打を放った。

掛布雅之

プロ野球解説者評論家

(※写真はイメージです/PIXTA)


(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

【【掛布雅之氏が解説】ランディ・バースが日本で飛躍的な活躍ができた理由】の続きを読む

このページのトップヘ