現役生活はわずか7年、度重なる怪我やメニエール病に悩んだことも……。ここでは2023年、WBCで日本を世界一に導いた栗山英樹さんの人生に密着。現役時代は決して輝かしい成績を残したとはいえない彼は、いかにして野球史に残る偉業を果たしたのか――。
スポーツライターの中溝康隆氏の最新刊『起死回生―逆転プロ野球人生―』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
◆◆◆
国立大出身の異色のプロ野球選手「キミはいいセンスをしている。もう少しがんばればプロでもやれるぞ」
『プロ野球ニュース』のキャスター佐々木信也氏は、息子が出る大学の練習試合を観戦に行った際、対戦相手で3本のヒットを打った若者に、そう声を掛けたという。その選手こそ、東京学芸大の栗山英樹である。
投手としては4年間で25勝8敗、打者としては打率.389をマーク。身長174センチ、体重72キロの小柄な体型だったが、50メートル6秒フラットの俊足と遠投120メートルの強肩の持ち主。しかし、注目度の低い東京新大学リーグ所属のため、ほぼ無名の存在だった。教育学部在籍で教員免許を取得、朝日生命への就職内定も決まっていた。
だが、栗山は野球への想いを捨てきれなかった。知り合いを介して西武とヤクルトの入団テストを受け、ヤクルトの合格通知を勝ち取るのだ。とは言っても1983(昭和58)年のドラフト外入団で、同期の1位は高野光(東海大)、2位には池山隆寛(市立尼崎高)らアマ球界のスター選手たちがいた。プロ入りに反対すると思っていた厳格な父親は意外にも応援してくれたが、息子を心配する母親に対しては「3年間やらせてくれ」と懸命に説得した。
「国立大出身の異色のプロ野球選手」への注目度は高く、「週刊ベースボール」84年7月21日号でも“国立ボーイ”と報じている。大学の卒論テーマは2カ月かけて自ら統計を分析した「高校野球に於けるカウント1-3からのバッティング」で、結論は「塁に出るためには待球がベスト。ヒットの確率より五倍以上も四球の方がいい」だった。
将来的な教職とアマ球界の監督の座について聞かれると、「いまは、そんなことは考えていません」とキッパリ否定。しかし、インテリのプロ野球選手という報道のされ方を、面白く思わない同僚選手も当然出てくる。
のちに栗山は自著『育てる力』(宝島社)の中で、チームメイトが「アイツが守るなら投げたくない」と公然と口にしたことを知り、さらには相手ベンチからは「お前、それでもプロか」と野次られた苦悩の新人時代を振り返っている。
7年の現役生活2年目には内野から外野へ転向して、尊敬する若松勉から、「クリ、惜しいなあ。あと3歳若ければ、いいスイッチヒッターになれたかもなあ」と声をかけられたのをきっかけに、「左での打ち方を教えてください」と頭を下げ、スイッチヒッターにも挑戦した。
すると、3年目に一軍で107試合に出場して、終盤は「一番右翼」に定着。打率.301、4本塁打と結果を残す。ファンレターは週30通。童顔でギャル人気が高く、少女マンガ誌「週刊少女フレンド」の「ザ・人気者ベスト10」という読者投票コーナーでは、トップアイドル光GENJIの内海光司や大沢樹生と並んで8位タイにランクインしたこともあった。
「週刊ベースボール」名物「BOX SEAT」コーナーでクリスマスについて聞かれると、「30個ぐらいのプレゼントをもらっています。一番多いのが、ぬいぐるみ」なんてヒデキ感激。『ベースボールアルバム』の広告コピーは、「栗山せんせい!こんな先生がいたらもう最高!」。芸能週刊誌「週刊明星」で、池山らと“ヤクルト男闘呼組”と特集されたこともある。
レギュラー定着へさらなる飛躍を期した栗山だったが、4年目の87年1月にアクシデントに襲われる。持病のメニエール病が悪化して、自主トレ中の吐き気と目まいがひどく入院。一時はコーチから野球はもうできないだろうと告げられ、再就職まで考える状態だったが、2週間の入院生活に注射と点滴で症状はなんとか治まり、1カ月後にチーム合流を果たす。
だが、出遅れと左足ふくらはぎの肉離れが響き、この年は72試合で打率.196と低迷。翌年が勝負だと夏前には寮を出て、月25万円のローンを組み東京の郊外に5000万円の一軒家を買い、2階には素振り用のスイングルームを作った。
88年、バント練習中にファウルチップが顔面直撃しての鼻骨骨折や自打球を当てての右足骨折と度重なる怪我に悩まされるが、助っ人テリー・ハーパーが途中帰国、前年新人王の荒井幸雄も故障でリタイアとチーム事情にも助けられ、後半戦にはセンターに定着。規定打席にはわずかに足りなかったが、打率.331のハイアベレージを残す。
翌89年はメニエール病の再発と闘いながら、初の規定打席到達。俊足を生かした外野守備が評価され、ゴールデン・グラブ賞にも選ばれた。だが、栗山の選手としてのキャリアの終わりは、あまりに唐突に訪れる。長くBクラスに低迷するチームを変えるため、野村克也が監督に就任した90年。背番号4は代打や代走が中心の69試合の出場に終わり、広島へのトレードも噂される中、秋には引退を決意するのだ。「週刊ベースボール」90年11月26日号には緊急インタビューが掲載され、栗山は自身の体調が限界に近かったことを告白した。
「今年が大事だと一日一日、悔いのないようにやってきたつもりです。それは肉体的な理由からです。医者にいわせるとボクの体は『20代とは思えないくらい、ガタが来ている』そうなんです。実際、右ヒジ遊離骨の鈍痛で朝の洗顔さえも、ままならないほどでした」
さらに両足の肉離れは慢性化。メニエール病で、守っていても遠近感がつかめず、体が浮くような感覚に陥ることもあった。野村野球をもっと学びたかったが、体がそれを許さなかったのだ。
「ボクの身上は目一杯の、一生懸命のプレー。でも体調が悪くては集中力が欠如して、いかんともしがたい。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、野球が好きだからこそ辞めなければならない、ボクの心情を察してください」
引退後はメディアで活躍プロ生活7年、29歳の早すぎる現役引退である。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。
引退後の栗山は、テレビ朝日『スポーツフロンティア』のメインキャスターを務め、『ニュースステーション』の企画で大リーグのトライアウトにも挑戦。「週刊ベースボール」でコラム「らいんどらいぶ」を連載し、雑誌「ASAhiパソコン」では「栗山英樹の大冒険」コーナーで、最新のパソコン事情を学んだ。なお、栗山の監督デビューは94年2月15日号で体験したパソコンの高校野球育成ゲーム『栄冠は君に3』である。
母校の学芸大の「現代スポーツ論」で教鞭をとり、96年に東京で開催された「ベースボール・トレーナーズ・セミナー」のシンポジウムにも参加した。メジャーリーグ好きとしても知られ、日米野球ではゲストの野茂英雄や吉井理人とともに解説を務め、『熱闘甲子園』の仕事では若き逸材たちを自分の目で確かめる。野球教室や少年野球大会の開催に奔走し、40代になってからは白鴎大学で経営学部の教授を務めた。
あらゆることを貪欲に学ぶその姿勢は、やがて日本ハムからの監督オファーへと繋がっていく。根気強く選手を育て、ファンサービスを厭わずできるかどうかというファイターズが監督に求める条件を満たす格好の人材だったのだ。
「プロでは無理だ」と言われた男の大逆転就任1年目の2012年にリーグ優勝。16年には日本一に輝き、計10シーズンにわたり指揮を執った。そして、21年にはついに第5回WBCでの世界一奪還を掲げる日本代表チームの監督に就任する。
思えば、国立大出身の小柄な体格で「プロでは無理だ」と野次られた男が監督となり、当初は「プロでは不可能」と周囲から批判された二刀流の大谷翔平を育て上げ、メジャーリーグのMVPになった愛弟子と侍ジャパンで再会。
投打にわたり漫画のような活躍を見せる大谷を、61歳の指揮官はアメリカとの決勝戦で最終回のマウンドへ。見事に世界一を勝ち取り、栗山采配はまるで映画のようなハッピーエンドの物語で日本中を熱狂させたのである。
〈球団をクビ→バッティングセンター管理人になったことも…“ドン底から年俸2億”に這い上がった“ドラキュラ似”の野球選手の正体〉へ続く
(中溝 康隆/Webオリジナル(外部転載))
(出典 news.nicovideo.jp)
|
<このニュースへのネットの反応>
【現役生活わずか7年、それでも“世界一の監督”に…栗山英樹の大逆転人生】の続きを読む