#戦力外通告

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福岡ソフトバンクホークスといえば、若い野球ファンにとっては強豪という印象が強いだろう。しかし、1989年に福岡に移転しても、しばらくは南海ホークス時代から続く低迷期を抜け出せずにいた。常勝軍団への礎を築いたのが、王貞治監督が率いた時代(1995~2008年)で1999年2000年には連覇を果たしている。その当時、いぶし銀プレイスタイルチームを支えていたのが湯上谷宏氏である。バットを置いて23年経つが、記憶は色褪せていない。現役時代に起こった印象的な出来事について振り返ってもらった。

◆当時の“南海”ホークスで印象的だったのは…

――1984年南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)にドラフト2位で指名されました。ご自身が若手のころはどんなチームでしたか?

湯上谷宏(以下、湯上谷):佐々木誠や岸川勝也、加藤伸一など、のちに主力になる選手たちがしのぎを削っていた時代です。「これから強くなっていく」ような雰囲気が漂っていましたね。

――刺激を受けた選手は?

湯上谷:経験豊富なトニー・バナザード(1988年入団)には、色々な部分を参考にさせてもらいました。

――具体的にどんな部分ですか?

湯上谷:身体作りにおけるストイックな姿勢ですね。プロテインすら存在しないような時代でしたが、彼は元メジャーリーガーなだけあって、しっかりウエイトトレーニングに取り組み、一緒に食事に行っても鶏胸肉しか食べないんですよ。

◆有望株の入団でポジション争いが激化

――1990年代中盤から、小久保裕紀さんや井口資仁さんといった有望株が続々と入団。ポジション争いは激化しました。それでも、本職ではない外野も守りつつ、1997年には101試合に出場しています。

湯上谷:星稜高校2年の夏の大会時、ショートレギュラーが胃腸炎で出られなくなってしまったんです。当然監督は「ショートできる部員」を探すわけですが、当時の私は投手だったんですけど率先して手を挙げ、代わりに出場機会を得ることができました。そのころから「試合に出るためには何でもやる」という信念を持っていたんです。

――守備だけでなく、打率が3割を超えた年もありますね。

湯上谷:規定打席には達していませんけどね。でも実は、これは王さんから「打率が3割を超えたから、これ以上は試合に出ずにその数字をキープしたほうがいい」と言われていたからなんです。僕は出場をお願いしたんですが(笑)

日本一になったシーズンは出遅れていた

――その後、1999年チーム日本一、翌年もリーグ優勝して日本シリーズではON対決が実現しました。

湯上谷:1999年は、オープン戦で肩の大怪我をしてしまって。開幕に間に合わず、リハビリを続けていました。ただ、当時のホークスはまだ若手ばかりで、守備と足で頼れる選手が必要だということで、手術は見送られたんです。

――手術を受けると、その年は治療に専念することになりますからね。

湯上谷:すると、5月の西武ドーム(現:ベルーナドーム)の試合で、ショートを守っていた若手選手がエラーをしたんです。僕はテレビでその試合を見てたんですが、すぐに電話がかかってきて「すぐに来い」って言われて。福岡から急いで荷物をまとめて飛行機に飛び乗り、翌日の試合には出場しました。

◆守備を重要視した王監督

――もう怪我は完治していたんですか?

湯上谷:いえ、まだボールを投げるのも打つのもままなりません。状況は伝えたんですが、「痛みがないなら来い」と王さんに言われて。

――選手時代から何度も優勝を経験している王さんだからこそ、守備を重要視していたのかもしれませんね。

湯上谷:王さん自身はホームランバッターですが、指導者としては細かい部分に厳しい人でしたね。でも、案の定数ヶ月後には痛みが出始めて、結果的にシーズンの途中で手術しました。

◆倉庫で戦力外を言い渡されて…

――翌年のシーズン後にホークスから戦力外通告を受けて引退されました。

湯上谷:2000年日本シリーズが終わった翌々日の夜に電話口で「明日、球団事務所に来て」と言われました。翌年に向けてトレーニングを始めていたので、最初は「何か悪いことしたかな?」と思いました。

――事務所ではどんなやりとりがあったんですか?

湯上谷:応接間ではなくて、倉庫みたいなスペースに雑然と置かれた長机を挟んで、当時の球団代表と話をしました。16年間頑張ってきたけど、「肩をたたかれるのがこの場所かよ」と。ものすごく悲しくて情けなかったですね。「もう一年見てくれてもいいんじゃないか」という気持ちもありましたが、悲しみでそれも言えなくて黙り込んでいました。

――他のチームで現役を続けるという選択肢は?

湯上谷:なかったですね。

――日本シリーズで、清原和博選手の内野ゴロを一塁に大きく暴投するエラーがありました。このプレーは現役続行を諦めることに影響しましたか?

湯上谷:あったかもしれないですね。なにより、その日本シリーズが終わって、地元の野球仲間から電話がかかってきたんですけど、悪送球のことを笑われてしまって……。もう、気持ち的にノックアウトされましたね。

<取材・文/Mr.tsubaking>

Mr.tsubaking】
Boogie the マッハモータースのドラマーとして、NHK大!天才てれびくん」の主題歌を担当し、サエキけんぞうや野宮真貴らのバックバンドも務める。またBS朝日「世界の名画」をはじめ、放送作家としても活動し、Webサイト「世界の美術館」での美術コラムやニュースサイト「TABLO」での珍スポット連載を執筆。そのほか、旅行会社などで仏像解説も。

湯上谷宏氏


(出典 news.nicovideo.jp)

湯上谷 竑志(ゆがみだに ひろし、本名:湯上谷 (読み同じ)、1966年5月3日 - )は、富山県黒部市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。愛称はガメ、ガメやん。 星稜高では甲子園に4回など全国大会に7回出場。1年生の1982年第64回全国選手権は控え選手、2回戦(初戦)で早稲田実業高の荒木…
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 まずは、僕が野球を嫌いになりかけた話から始めさせてください。

 幸運にもプロ野球選手になれて、好きなものを仕事にできて、それなりに1軍で結果を残せて。満ち足りた野球人生を送らせてもらいました。

 でも、結果的に現役最終年だった2020年、僕はあんなに好きだったはずの野球が嫌いになりかけていました。調子がよくても、結果を残しても使ってもらえない。1軍に上がるのは若い選手ばかり。プロ9年目、31歳になった僕も「これがプロの世界だ」と理解していたはずでした。

 それでも、秋が近づくにつれて野球が仕事でなくなる危機感、恐怖感に支配されていきました。11月2日、巨人に戦力外通告を受けた時は、頭が真っ白になりました。12球団合同トライアウトを受けても、NPB球団からのオファーはゼロ。僕は現役引退を決意しました。

プロ野球選手就職活動

 最初に頭に浮かんだのは家族のこと。僕には妻と息子、娘の家族がいます。現役時代は家族との時間が取れなかったので、半年近くは仕事もせずに家族サービスの時間にあてました。一緒に買い物に行ったり、娘の幼稚園の送り迎えをしたり、息子の学校行事に参加したり。

 それはそれで楽しかったのですが、さすがに仕事をしないと家族を養えません。でも、引退を決めた頃から僕の頭に渦巻いていた感情がありました。

――野球から離れる時間がほしい。

 まるで時間が止まったかのように、僕のなかで野球への嫌悪感が消えていませんでした。指導者の仕事を探す選択肢もありましたが、野球に対して悪い感情を抱いたまま若い人を教えることはできないと思いました。

 とりあえずアルバイトを始めました。ワクチン接種会場の誘導係でした。「問診を受けて、次は注射になります」などと、ワクチン接種する人を案内するわけです。

 バイトを週4日こなしながら、空いた日にハローワークに通いました。朝から昼まで仕事の検索をかけて、職員の方にも相談させてもらいました。

 僕は聖心ウルスラ学園高校から社会人クラブチームの倉敷オーシャンズ(現在は企業登録)でプレーし、巨人に入団しています。これまで就職活動をした経験は一切ありません。ただ、社会人時代は三菱の工場で働いていたので、「まずは工場で働くのがいいかな?」と考えました。

 さまざまな仕事について精通し、アドバイスを下さるハローワーク職員の方には感銘を受けました。こんな人がいるから社会が回るのだなとわかりましたし、納得のいく仕事を選ぶ大切さを学べました。

 そのなかで僕が働きたいと考えたのが、給湯器を製造する工場でした。

 いざ面接を受けにいくと、面接官履歴書の「読売巨人軍」という僕の前歴を見て「えっ?」と声を上げました。

「巨人の選手だったんですか?」

「はい、9年ほどいました」

 その後は仕事の話そっちのけで、巨人の話題が続きました。すんなりと面接をクリアし、「あぁ、プロ野球選手ってすごい職業だったんだな」と実感しました。

 工場は朝8時に始業し、休憩を挟んで17時まで働きます。時には残業をする日もありました。三菱の工場で働いていた時にネジを締める作業は得意にしていたので、「いいね、速いね」と褒めてもらえました。

 普通の人より体が大きかったこともあり、年下の職場仲間から「何かやってたんですか?」と聞かれました。野球をやっていたと答えると、草野球に誘われました。

 初めて草野球をやった時、みんなから「めっちゃすごくない?」と驚かれました。「一応、プロでやってたんだ」と伝えると、その噂は職場で広まっていきました。

 でも、すべての人が野球を好きなわけではありません。僕は経歴ではなく、自分の仕事ぶりで周りに認めてもらいたいと考えていました。

 プロ野球選手の頃から見て学ぶ術、やって学ぶ術が身についていたので、仕事も早く覚えられました。工場は7つほどのラインに分かれているのですが、先輩の仕事を見ながら「これとこれは一緒だな」などと覚えて、どのラインに入っても仕事ができるようになりました。

 そのうち、「休みが出たから田原さんはこのラインに入って」「人が足りないからこっち入って」と重宝してもらえるようになりました。工場長からは「あんたに休まれると困る」と言われました。巨人でも工場でも、僕は変わらず「便利屋」として自分の居場所を見つけられたのです。

 本当にいい職場でした。僕よりひと回り以上も年上の方が、「昨日の日本シリーズのあの場面、どうやった?」などと野球の話題を振ってくださいました。僕が自分なりの考えを話すと、「やっぱり見る視点が違うねぇ」と褒めてくれました。

 こんな日常会話をしているうちに、僕はどんどん野球がしたくなってきました。いつしか、野球への嫌悪感があとかたもなく消えていたのです。

物議を醸した息子の「最低広島」発言

 本来の僕は、極度の人見知りでした。

 巨人に入団してはじめの頃は、ファンの方々とどう接していいかわかりませんでした。「サインください」と言われても、ほとんど断っていたので気分を害した方もいたと思います。当時は「本当に俺のサインがほしいわけがない。気を遣って言っているのだろう」と思っていました。ファンと目を合わせようともせず、なかば無視するように去っていく。当時のファンの方々には申し訳ありませんが、僕自身どうしていいかわからなかったのです。

 そんな僕を叱ってくれたのが、妻でした。

ファンの方がいるから、野球選手はご飯を食べられるんやろ。そういうことをちゃんとしないとダメよ」

 妻からそう言われてハッとしました。それ以来、よほどのことがない限りサインを求められたら「僕なんかでよければ」と書かせてもらうようになりました。プロ野球選手時代と比べて大幅に収入が減っても生活できたのは、やりくり上手の妻の手腕でもあります。

 妻と結婚できたおかげで、もうひとつ成長できたと感じることがあります。

 僕の息子は妻の連れ子で、血のつながりはありません。でも、当時2歳だった息子と初めて会った日、僕は今までにない不思議な感覚に包まれました。

 隣に座った息子にご飯を食べさせ、一緒に風呂に入り、添い寝する。彼と1日を過ごすなかで、確信めいたものがありました。

 あぁ、この子は俺の子だな。

 初めてのはずなのに、初めての気がしない。息子も僕のことを「パパ」と呼んでくれて、何の疑いもなくやっていける自信がありました。

 息子が球場やテレビの前で「パパ~!」と応援している動画を妻がよく送ってくれました。プロの世界で戦ううえで、息子の応援は何よりも大きな力になりました。

 その後、妻との間に娘ができましたが、息子と娘への感情は変わりません。ふたりともかわいい僕の子どもです。

 僕が戦力外通告を受けた時期、テレビドキュメンタリー番組で僕たちの家族が取り上げられました。息子が言った「ソフトバンク行けんかったら、最低広島に行きたい」という言葉がネット上で切り取られ、物議を醸しました。

 でも、息子の発言の元をたどると、そもそも僕が言っていたことなのです。その時点で、生活拠点を妻の実家がある北九州に移すことが確定していました。運よくプロ球団に拾ってもらえたら、単身赴任になるかもしれない。となると、できればすぐに家に帰れるようなソフトバンクや広島に獲ってもらえたらうれしいなと。

 そうした僕の願望が前提としてあり、小学生の乱暴な言葉選びも相まって不用意な発言になってしまいました。

 ただ、僕の感覚では9割くらいの人が息子を擁護してくださったと感じます。批判する人のほとんどが番組を見ず、言葉だけを知って叩いているようでした。最初に息子を叩いた方からは、のちにSNSを介して謝罪があったと妻から聞きました。

 息子は周りから聞かされ、騒ぎになっていることに気づいたようです。でも、僕たちは「全然大丈夫だよ」と伝えました。騒ぎになったと言っても1週間くらいのことで、すぐに平穏な日常が戻ってきました。

「縁の下の力持ち」になりたい

 娘のリクエストに応えて、髪を青に染めたこともありました。息子も娘もBTSにハマっていて、「ジョン・グクの髪の色にして」と言われたのです。幸い職場は髪色が自由だったので、真っ青に染めてみました。家族からは好評で、自分としても楽しめたのでよかったです。ただ、その後にイベントでお会いした上田剛史さん(元ヤクルト)からは「DJ社長かと思ったわ」と言われましたが……。

 工場の仕事にすっかり慣れた頃、一岡竜司(広島)から電話が来ました。一岡はドラフト同期として巨人に入団した仲でした。彼が卒業した専門学校・沖データコンピュータ教育学院の理事長が、僕と話したいと言っているとのこと。お会いすると、コーチとしてのオファーをいただきました。

 また野球に携われる喜びが沸き上がると同時に、工場長の顔が浮かびました。採用時に工場長からは「いずれ指導者のオファーが来て、抜けることも承知しているから」と言われていました。でも、1年足らずで退社することは申し訳ない。そこで、「すぐには行けないので、仕事の引き継ぎをさせてください」とお願いしました。

 理解のある工場長のおかげで退社が決まり、その後は「僕以上の仕事ができるように」と引き継ぎに全力を注ぎました。2022年5月16日から沖データにお世話になり、野球部の指導に携わっています。工場長とはその後も食事に行かせてもらうなど、いいお付き合いをさせてもらっています。

 巨人に在籍していた頃、僕はヒーローインタビューでこんなことを言った記憶があります。

「僕は縁の下の力持ちになれれば、それでいいです」

 選手ではなくなった今も、その思いは変わりません。朝早くに自宅を出る時、家族の幸せそうな寝顔をこっそり見る。それだけで僕は満足です。

 レストランでは遠慮なく好きなものを食べて、「おいしい」と言ってくれたらそれでいい。家族が笑顔なら、僕はサラダだけでもいいんです。

 巨人をクビになってわかったこと。それは僕が野球を愛していることでした。そして、もうひとつ。これは前々からわかっていたことですが、僕はやっぱり心の底から家族を愛しているのです。

◆ ◆ ◆

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(田原 誠次)

現役時代の筆者・田原誠次 ©時事通信社


(出典 news.nicovideo.jp)

田原 誠次(たはら せいじ、1989年9月2日 - )は、宮崎県延岡市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 延岡市立岡富小学校3年時にソフトボールを始め、延岡市立岡富中学校時代は軟式野球部に所属。 聖心ウルスラ学園高等学校に内野手として入部するが、背番号も与えられなかった。2年時の秋に監督の助…
20キロバイト (2,209 語) - 2023年4月14日 (金) 19:42



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山口 (やまぐち しゅん、1987年7月11日 - )は、大分県中津市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 レギュラーシーズンにおける平成最後のノーヒットノーランを達成している。 父は大相撲の元幕内力士・谷嵐久。 柳ヶ浦高等学校1年時の2003年に第85回全国高等学校野球選手権大会へ出場したが、初戦で常総学院高等学校に敗れた。…
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 2023年1月期ドラマが続々とスタートし、様々な作品でこれからのエンタメ界を担うであろうネクストブレイクが起用されている中、新人開発に積極的な芸能プロダクション各社が今年プッシュする注目の新人を紹介。ジャンルを問わず幅広い場面で活躍できるタレントインフルエンサーを育成している「ENPASS」の『イチ押し新人』滝野要を、本人のインタビュー&担当マネージャースタッフの取材とともにクローズアップ。昨年10月戦力外通告を受け、YouTuberに転身した元プロ野球選手の滝野は、「戦力外になって職を失ったので、人生一発逆転したいと思って芸能界に入ろうと思いました」と、芸能界入りの理由を明かした。

【写真】ENPASS所属の俳優・タレント/中冨杏子

【ENPASS所属:滝野要(たきの・かなめインタビュー

――デビューのきっかけを教えてください。

【滝野要】「2019年から中日ドラゴンズプロ野球選手として活動をしていたのですが、昨年10月4日戦力外通告を受けました。戦力外通告を受けた日の様子を動画に収めて、その日に始めたばかりのYouTubeチャンネルに動画をアップしたところちょっとバズりまして。その後も動画を上げていく中で表に出るのが楽しくなっていって、そのうちにTVにも出たいと思うようになりました。そのことをTV関係の知り合いに相談したら、ENPASSを紹介してもらって所属することになりました」

――もともと芸能界に憧れはあったのですか?

【滝野要】「憧れてというわけではないのですが、戦力外になって職を失ったので、人生一発逆転したいと思って芸能界に入ろうと思いました」

――このお仕事の楽しさ・魅力はなんですか?

【滝野要】「有名人に会えること。ロバート秋山さんのYouTubeをずっと観ているのですが、ご本人を生で見た時にオーラを感じました」

――大変だなと思うことは?

【滝野要】「一切ありません。高校時代、寮生活で朝から晩まで365日中360日学校と球場の往復という過酷な生活があったので、それに比べたら大変なことはないと思っています。まだ始めたばかりなのでわかりませんが」

――今後の夢、目標を教えてください!

【滝野要】「バラエティ番組が大好きで自宅にいる時はずっとTVをつけています。なので、たくさんバラエティ番組に出たいです。小さい頃から『ジャンクSPORTS』を観ているのですが、まだ戦力外通告を受けた選手が出演しているのを見たことがないので、そこに呼ばれるくらいのタレントになりたいです。そしてダウンタウンの浜田さんに頭を叩かれたいです。目標はバラエティタレントとしてプロ野球選手よりも稼ぐことです」

◆担当マネージャースタッフからのイチ押しポイント
「滲み出る人柄の良さと、独特な言葉使いや間、天然さをもつタレントです。ファンの皆様、メディアの皆様、戦力外タレント・滝野要の応援をよろしくお願いいたします」

プロフィール
滝野要(たきの・かなめ)●1996年7月8日生まれ、三重県松阪市出身。ENPASS所属。
趣味・特技 / 趣味:競艇、パチンコドライブ、食べ歩き、サウナ 特技:長時間運転

【出演歴】
日本テレビ月曜から夜ふかし」、日本テレビ「新春シューイチ
【球歴】
大垣日大高校/第95回、96回夏甲子園出場
大阪商業大学/ベストナイン4回、関西六大学リーグ通算101安打
2019年2022年 中日ドラゴンズ
2020年10月24日 ヤクルト戦(神宮)プロ初安打
2022年10月4日 戦力外通告

「ENPASS」2023年イチオシ新人・滝野要


(出典 news.nicovideo.jp)

滝野 (たきの かなめ、1996年7月8日 - )は、三重県飯南郡飯高町(現:松阪市)出身の社会人野球選手、元プロ野球選手(外野手、内野手)、YouTuber。右投左打。 飯高町立宮前小学校(現:松阪市立)2年時に堂山スポーツ少年団でソフトボールを始め、松阪市立飯高東中学校では松阪ボーイズに所属していた。…
19キロバイト (2,250 語) - 2023年1月12日 (木) 09:35


セカンドキャリアでの成功を期待

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 驚くほどにスッキリとした表情をしていた。プロ11年間、2015年には自己最多の34試合に登板し、翌16年にはプロ初完封もマークしている。戸田隆矢は、左肘の故障もあり、2022年オフ、カープユニフォームを脱いだ。

 その野球センスの高さは、左のエースに台頭していても、何の不思議もなかった。

 通算95試合、11勝7敗1セーブ。潜在能力からすれば、「完全燃焼」とは言い切れまい。しかし、目の前での口ぶりは実に清々しいものがある。

「僕ね、体を動かすのは得意だし、暑さに強いです。なんといっても、カープの由宇練習場(山口県岩国市)で鍛えられていますから。そもそも、汗をかくことは好きです。仕事しながら汗をかくことって、幸せですよね」

「あの頃から、農業のことが頭にありました」

 レモン農家に転身するらしい。

 これまでも、セカンドキャリアの話をすることはあった。

「いやいや、野球で夢を見せてよ。ここからだよ」

 そう合いの手を入れながらも、戸田の考え方が、少しずつ一貫性を持ち始めていたことも感じていた。

「野球では怪我にも苦しみました。それだけに、『健康』の大切さを感じることは多いです。健康。うーん。トレーニングの知識、栄養のこと。あと、体を動かすことも素晴らしいことだと思います」

 こういう会話の中でも、彼は、考えを発酵させているようだった。

 しかし、この度の「レモン農家」には驚いた。

 友人の一人は言う。

「最初はビックリしました。僕も祖父母が農家でしたが、仕事はとても大変そうでした。お正月も朝は畑に行っていましたし、ノウハウも必要。近くに経験のある人がいて、学びながらやっていくものと聞いたこともあります。何より、祖父母の周囲も、若い農家は少なかったです。でも、純粋に語る戸田くんを、凄いとも思いました」

 戸田にとっても、思いつきなどではなかった。左手首の怪我もあり、2017年以降、出場機会も激減。左肘の手術も受け、2021年からは「背番号125」の育成契約となっていた。

「あの頃から、農業のことが頭にありました。オフに、地元(兵庫県)で、農業をやっている同級生を見に行ったことがあるんです。働く姿が楽しそうで、自分は野球をやっていたのですが、元気や刺激をもらいました」

先輩農家が語る戸田の「ポテンシャル

 そこから2シーズン、戸田はプロ野球プレーした。復活を期待してくれた球団への感謝は尽きない。親身になってくれたスタッフサポートにも応えたかった。しかし、万全の状態で投げられる試合など、ごく僅かだった。1年1年が勝負だった。1日1日が必死だった。

「このままだと、野球が終わったら、自分には何も残らない」

 トレーニングと並行して、自分の内面に問いかける時間も多くなっていった。

 そして、2022年10月戦力外通告を受けた。ただ、戸田の生来の明るい性格は変わらなかった。ささやかな慰労会を設けたが、その場でも、戸田は純粋な目で、「未来」を語っていた。

「やはり、あのときから、人生の選択肢の一つに『農業』はありました。自分で育てたものを食べることができる。しっかり作物を育てれば、食べるものに困りはしないわけですよね。それに、僕は、体を使うことが大好きですから」

 そこからの行動は早かった。瀬戸内海を一望できる場所に、土地も借り受けた。戸田は、雑草を抜き、土地を耕し、レモン栽培の一歩を踏み出そうとしている。

 ここでも、「チームメイト」に恵まれた。近所の人は、彼を快く受け入れている。

「いつでも連絡してきて」

 そんな先輩農家の言葉もありがたい。

 指南役も見つかった。近隣の甲斐農園である。レモンの収穫には最短でも3年はかかると聞く。甲斐直樹さんは、その仕事の厳しさも知るが、戸田の「ポテンシャル」も実感している。

「我々の仕事は、体力が基本です。戸田さんは身体能力も高いわけですから、これは大きいです。それに、彼は有名な元・アスリートです。その発信力で広島レモンを広める力があると思います。広島県レモンの生産量日本一ですから、戸田さんの活動を通じて、全国に知ってもらいたいです。彼ならではのPRや販売の姿は、我々にも刺激を与えてくれるだろうと楽しみにしています」

 東広島市安芸津町、海からの陽を受けながら、戸田は土に手をやった。

 このあたりは、鉄などのミネラル分を含む、水はけの良い土壌として知られている。安芸津町のじゃがいもは、全国区のブランドである。

 プロ11年、「健康」の大切さは痛感している。少年少女に野球も教えたい。歓迎してくれた地域も盛り上げたい。もちろん、カープファンへの感謝の思いもある。

 29歳。その鍛え上げた「軸足」は、肥沃な赤土を踏みしめたばかりである。

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(坂上 俊次)

レモン農家に転身した戸田隆矢 ©坂上俊次


(出典 news.nicovideo.jp)

戸田 隆矢(とだ たかや、1993年6月10日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 神戸市立神陵台中学校時代は兵庫県の神戸須磨クラブでエースを務める。 樟南高校では、1年時にチームが第91回全国高等学校野球選手権大会に出場するも、自身はベンチ外であった。2年時からエース…
13キロバイト (1,407 語) - 2023年1月13日 (金) 05:23


夢と希望に満ちたセカンドキャリア

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